【特別連載】
二章
その日、若旦はんは店に戻ってきまへんでした。
いやあ、けったいな日いうんは続くもんですなあ。
翌朝のことですわ。
私、店の二階の六畳間に嫁はんと二人で住まわせてもろて、〈高安〉の番を任されとるんです。そろそろ起きて店の掃除をしよかと思てたら、表の木戸を叩く者がおるんです。まだお日さんが顔を出したとこでっせ。こんな朝っぱらから誰やと戸を開けてみると……驚きましたがな、なんと若旦はんですねん。
「どないしはったんです」
「起こしてしもたか。ちょっとおまえに頼みがあってな」
「頼み? そりゃあ若旦はんの頼みでしたら聞きますけど」
「今日の仕込みはこれからやな」
「へえ、まだみんな来てまへん」
〈高安〉には私を含めて四人の菓子職人がおります。私、最近はずっと店に立ってお客の相手してますけど、ちゃんと修業もしたんでっせ。大旦那はんから直々にね。他の三人の職人のうち一人は年上でっさかい、私は二番弟子いうことになりますな。
「昨日の余りもんでええから、饅頭残ってへんか」
若旦はん、珍しくちょっと慌ててる様子です。いつものんびりした口調やのに、なんや早口でしたわ。
「朝っぱらからお腹空いてますんか」
「おれやない。この人や」
木戸の向こうで一人の男がちょこんと頭を下げてます。まだ若いのに、えらい痩せてるんですわ。おまけに髷はざんばらで、着てる甚平も黒ずんでます。私、着古した浴衣を寝巻にしてますんやけど、それよりもぼろですねん。
「そのお人はどなたです? 若旦はんの知り合いでっか」
「知り合いっちゅうわけやない。どっちかいうたら赤の他人やな」
「はあ?」
「あの蒸籠ん中にあるか」
若旦はん、土間の端に積んである蒸籠を指差しました。
「酒饅頭がいくつか残ってますけど、痛んでても知りまへんで」
酒饅頭はあんまり日持ちがしまへんのや。今は夏場やから余計にですわ。
「聞いたやろ? 遠慮せんで食うたらええ。品物として店に出すもんやない」
若旦はんは男を店の中に入れて、蒸籠んとこまで連れて行きました。
男は恐縮してるんか、腹が減ってふらふらしてるんか、前屈みになってちょこちょこ歩いてます。
私も男のあとについて行きました。言うたらなんですけど、ちょいと甚平が臭います。たぶん洗濯してまへんのやろな。
「若旦はん、ちょっと」
私、若旦はんの小袖を引っ張って表に出ました。どういうことか聞き質そう思たんです。
「きちんと説明してください。〈高安〉の番頭として、店の中でのことは私に責任がありますんや」
「責任て、そんな大層な話やないやろ」
「せやかて、なんか問題が起きて大旦那はんに叱られるんは私でっせ」
「わかった、わかった」
若旦はん、表の壁にもたれかかってふっと一息つきました。お日さんが通りの東側に顔を出してます。今日も蒸し暑い日になりそうですわ。
「昨日のことや。ほら、涼みに行く言うて店を出たやろ。天神橋の下の川べりで休んどったんや。日陰になっとるからな。そしたら、土手の草むらから呻き声がするやないか。虫の音にしてはえらい苦しそうやし、なんや思て近づいてみたら、びっくりしたがな。あの男が倒れっとった」
「倒れとったって――」
「仰向けになって目が虚ろや。死んでるんか思てあたふたしたわ」
若旦はん、その時のことを思い出してるんか、大袈裟に目をきょろきょろさせてます。もともと大きな目やさかい、なんや達磨みたいです。
「声かけてみたら、腹が減って動けんいう返事や。どうにかしたろ思て、とりあえず近くの井戸から水を汲んで飲ませてやって、そのあとでうどん屋に連れてった」
「うどん屋て、うちへ来たらよろしいのに。饅頭やったらいくらでも――」
「なにを言うとんのや、清六。おまえ、さっきみたいに嫌な顔するやろ」
「え?」
私、そんな面してたんかと恥ずかしゅうなりましたわ。それは内心、面倒はごめんて思てました。けど、顔には出さんよう注意してたんでっせ。あかん、これやと番頭失格ですわ。
「ほんであの人、どこの誰ですのんや」
私、取り繕うように言いました。
「
佐吉
さきち
いうんや。京都の
木津
きづ
の方で炭を作って売ってたらしい。甚平が黒ずんどったやろ。あれは職業柄や。おまえは変な目で見とったけどな」
私、顔が真っ赤っかになりましたわ。若旦はん、ほんまよう見たはります。
「で、うどん食いながら話を聞いとったら、佐吉は先月、仕事があまりにきつうて逃げ出してしもたんやと。親方に黙ってこそっとな。その親方、えらい厳しい人らしいわ。ちょっとでも手を抜いたら、すぐに拳骨が飛んでくる。給金も大してもろてへんし、もう我慢ならんかったんやと」
なんとのう経緯がわかってきました。佐吉は木津から飛び出したあと、稼ぎのええ職を探して大坂まで出てきたわけです。詳しい数は知りまへんけど、確か京都は三十万、大坂はおよそ四十万と、十万人も人口が多いでっさかい、そのぶん稼げると踏んだんでしょうな。
けど、佐吉の思う通りにはいかんかった。そうそうわりのええ仕事なんか見つかりまへん。そうして少ない蓄えを食い潰してるうちに底がついてしもた……自分から逃げ出したわけやし、戻るに戻れまへんわな。
「まあ、大雑把に言うたらそんなとこや」
若旦はん、苦々しう眉を細めて頷きます。けど、その目はなんや悲しそうに見えましたわ。
「そんなこんなで宿代もあらへんから土手で寝とったらしい。『ちょっとの間やったら、うちで寝たらええ』言うたんやけど、佐吉は頑なに断りよった。『うどん食わしてもろたうえに、寝床まで世話になるわけにはいかん』てな。まだ十七やのに、なかなか弁えのある男や。まあ、後先考えんとやけっぱちになってしまう幼さはあるけどな」
私、ぐっと喉が詰まりました。その言葉、もうちょっとで口にするとこでしたんや。辛抱が足りんてね。私も修業の頃はよう怒鳴られたもんです。拳骨の一つや二つ食ろうたことも……と、若旦はんが右手を挙げてます。なんも言うなってことですわ。若旦はんはほんま察しがええ。
「そのあとも佐吉はずっと首を横に振りよるから、好きにせえ言うて昨日は別れたんやけど、このまま放っておくわけにもいかんがな。せやから『腹が減ったら〈高安〉に来い』とだけ伝えておいた。ほんなら案の定――」
若旦はん、優しいでっしゃろ。虫の知らせでもあったんか、もしかしたら思て朝
早
はよ
うに店に来てみたそうですわ。そしたら佐吉が表で座っとったいうわけで。
「定露さん、おおきにです」
佐吉が私のうしろで深々と頭を下げてました。
「おう、たらふく食うたか」
「美味かったです……京都のよりも食べ応えがありました」
「せやろ。京都もそやけど、他の店の饅頭は皮が薄うて、あんこも少しだけで食うた気がせん。その点、うちのはちがう。小豆は
泉州
せんしゅう
産や。甘味に角がのうて口当たりが柔らかい。これが厚い皮の食感とよう合うんや。ずっと飽きんと食える」
「はい……ほんまこのお礼は必ず……」
「礼なんかええ」
「それでも……」
「こっちは番頭の清六や」
若旦はん、佐吉を遮るように言いました。なんや私に目配せしてはります。佐吉に余計な気を遣わせるなってとこですな。
「佐吉はん、頭を上げたらええです」
私、佐吉の背中に手を当てました。
「おおきに、清六さん」
なかなか誠実そうな男ですわ。顔をよう覗いてみると、さっきよりもぱっと肌が明るうなってます。腹が満たされたせいか、ふらついてた体がしゃきっとしてます。えらいもんですな。
「定露さん、清六さん、せめて店の掃除でもさせてください。そうやないと気が済みません」
若旦はん、困ったように肩をすくめて
笑
わろ
てはりました。
「わかった、佐吉。ほな、気が済むまで掃除して帰れ。また困ったら店に来たらええ」
「……おおきに」
つぶらな瞳です。おまけに小柄なこともあってか、まだまだ可愛らしい少年ですわ。若旦はんが放っておけんかったんもわかるような気がします。
私、佐吉に箒と雑巾を渡したあと、二階に上がって古の浴衣を取ってきました。
矢絣
やがすり
の柄です。佐吉にやろう思いましたんや。
若旦はん、そんな私を見ながら楽しそうに微笑んでましたわ。
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(2026年1月31日更新予定)
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