~特別連載~短編時代小説
「鬼火」池田久輝

五章

 翌日は雨になりました。朝から小雨がぱらついて、じとっとした粘っこい湿気が漂うてます。
 こういう日は難儀なんですわ、饅頭作んの。湿気が多いと、酒種と水の配合やら、皮の発酵具合やら、小豆を火にかける時間やら、細こう調整せんと満足のいく品ができまへんのや。私も修業の頃は大旦那はんからよう怒られたもんですわ。
 まあ、うちの職人はみんな厳しい修業を乗り越えてまっさかい、なんも心配はいらんのですけどね。
 それより心配なんは若旦はんですねん。
 今朝〈高安〉に来てから、番台の隅の方に腰かけてずっと本を読んではりますんや。えらい真面目な顔で、話しかけよ思ても気が引けるくらいなんですわ。
「その本、おもろいんでっか」
 さらっと訊いてみたら、あっさり無視されましたがな。邪魔や言わんばかりです。昔から若旦はんが本好きなんは承知してますけど、こんな雰囲気は初めてですわ。
 難しそうな漢字がぎょうさん並んでます。けったいな絵や図なんかもありましたな。表紙に〈宇田川なんちゃら〉て書いてあったような気がしますけど、私にはさっぱりわかりまへん。
 結局、昨晩の鬼火のことも、佐吉の行方についても切り出せまへんでした。
 昼になっても小雨がだらだら降り続いとるせいか、あんまり客が来まへん。 ほな今のうちにと店を抜け出ました。正之助に詫びに行こう思たんです。 正之助の建具屋〈弥助屋やすけや〉は三軒隣でっさかい、傘は必要ありまへん。ちゃちゃっと走ればすぐです。
「正之助はん、ちょっと構いまへんか」
「おう、清六さん」
 やっぱり正之助も暇そうにしてました。
〈弥助屋〉も〈高安〉と似たような作りです。土間のあちこちに修繕中の障子や襖が立てかけてあって、木と糊の香りがぷうんとしてます。
 正之助はあくびをしながら表の軒下まで出てきました。私、それを待ってから頭を下げました。
「昨日はすんまへんでした」
「昨日?」
「なにを言うてますんや。正之助はんが大川で見たっちゅう鬼火のことですがな。私、そんなあほな思てたもんやさかい、酒のせいやなんやと適当な返事をしてしもて……」
「はあ? そんなことで謝りにきたんかいな。なんも気にしてへん。俺かて信じてるわけやない言うたやろ。清六さんが首を捻るんも当然や」
 実直で懐の深い男でっしゃろ。昨晩の騒動をどう話そうか迷てたんですけど、正之助の性格のおかげで、ぐっとしゃべりやすうなりました。
「正之助はん、あとで私をおちょくってもええさかい、少し聞いてもらえまへんか」
「もちろんや」
「おおきに。実は昨日の晩――」
 私、ためらいながら口を開きました。ばつが悪いこともあって正之助の顔をよう見られまへん。それでもちらちら窺ってると、正之助が前のめりになってくるんがわかりました。頬に朱が差して、細い目を見開いてますねん。
「ほう、清六さんも見たんか!」
「大川やのうて、格子窓の外でしたけど」
「場所なんかどこでもええ」
「信じてくれはるんでっか」
「当たり前や」
 正之助は興味津々で「ほんで、ほんで」と重ねてきます。私、同じ話を三度も繰り返しましたがな。
「なるほど――おハツさんも目にしてるんやったら間違いない」
「私、嘘なんて言うてまへんで」
「わかってる。うたごうてへん」
 正之助は軒下から顔だけ出して〈高安〉の二階を見やりました。
 その途端、正之助の眉間に険しいしわが走りました。
「ん? なんや、あの男……」
 見ると、小雨の中を一人の男が東の方から歩いてきます。
 はじめはお侍はんかと思いましたわ。太閤はんのお城は目と鼻の先です。ここから天守を拝めるくらいです。
 お侍はんの大半はその城内か、すぐ南側の武家屋敷に住んでまっさかい、あんまり町の方へは来んのですけど、蔵屋敷に宿泊してるお侍はんは結構目にしますんや。参勤交代で留まってたり、単なる旅の途中で休息をとってたり。
 私、じっとその男を見つめました。手ぶらです。刀は差してまへんし、傘も持ってまへん。ずいぶん歩いてきたんか、全身がしっとり濡れとるんですけど、男にはまったく急いでる様子がありまへん。
「傘がないんやったら貸したろか」
 正之助が男に向かって大きな声を張り上げました。
 なんべんも瞬きして目をこすりましたわ。その男、正之助よりも大きいんです。背丈だけやありまへん。鼠色の甚平から出とる腕も逞しい。
 いやあ、ほんまびっくりですな。こんなごつい男がいるやなんて。
「傘は結構」
 男は立ち止まらんと、ぶっきら棒に答えました。
「あんた、でかいな」
 さすがに正之助も驚いてるみたいでした。つい本音が漏れ出たいう感じです。
 男はすっと視線をよこすだけで、私らを無視して横切って行きました。存在感があるいうんか、迫力があるいうんか、えらい圧を持った男です。
「この辺の者やないな」
 男の背中を見送りながら、正之助がぼそっと呟きました。
「ええ、あんな大男がおったら評判になってまっせ」
「俺よりも背の高いやつ初めて見たわ。清六さんの言う通りや、大坂は広い」
「広いですなあ」
 と――男が足を止め、くるりと振り返りました。そうして私らをじっと見つめたか思うと、悠然とこちらへ戻ってきます。どしんどしんて足音が聞こえるようでした。
 隣で正之助の体がぐっと膨らむんがわかります。たぶん男を警戒して熱うなってますんや。
「揉めたらあきまへんで」
 私、万が一のことを考えて忠告しておきました。正之助は真っ直ぐでええ男なんですけど、真っ直ぐ過ぎるがゆえに頭に血がのぼるんも早いんです。そこがたまに傷で。
「そのつもりはあらへん。けど、相手の出方次第や」
「正之助はん――」
 男が目の前までやって来ました。
 正之助が壁なら、この男は山ですわ。髪は伸び放題で、うしろで雑にまとめてます。角張ったあごには無精ひげが浮いとって、眉毛も濃い。なんや毛むくじゃらです。
「気が変わったんか。やっぱり傘いるか」
「いや、いらん」
 男ががさついた低い声を響かせました。
「ほな、なんや」
「一つ訊ねたいことがある」
「おう、聞こか」
 男は軒下に入らんと、通りで雨に濡れたままです。雨粒が額や頬から滴ってますけど、まったく気にならへんのか、拭う様子がありまへん。
「遠慮せんでええ」
 正之助が促すと、男は少しだけ目を外して〈弥助屋〉の中を覗きました。
「建具屋か」
「せや。俺はここの二代目の正之助いう者や」
「そうか……いい職人だ。体つきを見ればわかる」
 男は正之助の肩から指先へとゆっくり視線を這わせました。
「あんたの体には負ける」
 正之助がにやっと笑います。
 私、ほっと胸を撫で下ろしました。正之助がかっとなって取っ組み合いでも始めようもんなら、こんな二人の大男、私には止めることできまへん。
「この周辺に〈高安〉という店はあるか」
 男が出し抜けに言いました。
 不意を衝かれましたわ。いきなり話の矛先がこっちにきたもんで、私、その場で飛び上がりましたがな。
「饅頭屋のことやったらうちの店です。この三軒隣」
 店を指差すと、男はそちらへ首だけ流します。
「私、〈高安〉の番頭やっとる清六いいます。なんぞ用やったら伺います」
「……いや、いい」
 男は息混じりに零すと、またくるっと背を向けて西へ歩き出しました。
「ちょっと待て。あんた何者や」
 正之助が呼び止めましたけど、男は振り返りまへんでした。そのまま大股で進んで、やがて通りの向こうに消えてしまいました。
「清六さん、あの男の腕見たか」
 正之助がぽつりと言います。
「ええ、丸太みたいでしたな」
「喧嘩になったら負けてしまうな」
「え? 喧嘩するつもりでしたんか」
「いいや」
 正之助は嬉しそうに頬を崩して、しみじみとまた言いました。
「大坂は広いんやな」



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(2026年3月14日更新予定)