【特別連載】
六章
雨が上がったんは七つ頃でした。
今日は商売になりまへんでしたわ。うちの職人らも、その辺りを見越して数を減らして作ったんですけど、それでもぎょうさん余ってしまいました。ああ、もったいない。
「清六、もう店じまいや」
若旦はんが首筋をほぐしながら言いました。朝からずっと例の本を読んではりましたさかい、それは首も肩も凝りますわな。
「小腹が空いた。饅頭余ってるか」
「ありまっせ。今日は雨のせいで客がさっぱりやったんで」
「まあ、そういう日もあるやろ」
若旦はんは大きく伸びをしてから土間に下りて、蒸籠の中の酒饅頭をちょいとつまみました。
「えらい根を詰めて何を読んではったんです?」
「おまえに説明してもわからん」
「私、学はありまへんけど、本くらい読みまっせ」
「別におまえを馬鹿にしてるんやない。おれ自身、どう説明したらええのかわからん」
「どういうことです?」
「それくらい厄介な本いうことや。半分も理解できてへん。同じとこなんべん読んでも、ちんぷんかんぷんや」
どうりであんな顔してはったわけです。若旦はんなりに理解しようと必死やったんですな。
「世の中には、こんなもんを書くおもろい人間がいるんやなあ」
若旦はんはそう言うて、麦湯で饅頭を流し込みました。
「あ、おもろい男いうたら……」
私、ふとあの大男のことを思い出しました。
「今日の昼、えらいごつい男に会いましたわ。正之助はんよりも大きいんでっせ」
「正之助よりも? それは珍しい」
若旦はん、にこっと頬を崩しました。けど、なにを思たんか、すぐにその笑みを引っ込めてしまいました。本を読んでた時みたいに真剣な顔つきに変わってます。
「どないしはったんです」
若旦はん、こめかみの辺りを指で叩きながら、ちょこちょこ歩き始めました。蒸籠の方へ行っては戻ってきます。考え事をしてる時の昔からの癖ですねん。
と――若旦はん、急に立ち止まりました。
「清六、その男と話したか」
「ええ、少しだけ。〈高安〉はどこやと訊かれました」
「え? うちの店に訪ねてきたんか」
「ちがいます。正之助はんのとこで――」
若旦はんに事の顛末をざっと伝えました。ああ、もちろん鬼火のくだりは言うてまへんで。恥ずかしいでっさかい。
「……ほなその男、店には来てへんのやな」
若旦はんが難しそうに目を細めて確かめます。
「三軒隣やと教えましたけど、店には寄りまへんでした」
「そのあとは?」
「いえ、来てまへん」
「男の素性は?」
「なんにも。正之助はんが『何者や』て訊いても、無視して行ってしまいましたわ」
若旦はん、なんやぶつぶつ呟きながら、また店の中を歩き出しました。よう耳を澄ましてみると「そんな大男やったんか」て聞こえてきます。
若旦はんはそのまま番台の方へ行って、あの本を手に取りました。
「清六、もしその男が〈高安〉に現れたら、なんとか引き留めてくれ。少し話してみたいんや」
「引き留めるて、どうやるんです? 力ずくでは無理でっせ」
「たらふく饅頭食わせてやれ。腹一杯になったら眠ってしまうやろ」
「そんなあほな」
「おれは屋敷に戻る。悪いけど、そうなったら呼びにきてくれるか」
「構いまへんけど……私、大男と二人きりなんて怖いですわ」
「正之助を呼んだらええ」
言うなり若旦はんは本を懐に押し込んで、さっさと表に出て行ってしまいました。
わけがわかりまへんでした。若旦はん、あの男にえらい関心を持ってはるようです。けど、知り合いでもないみたいですし……。
「――清六」
若旦はんです。忘れ物でもしたんか、すぐに戻ってきはりました。
「昨日はすまんかった」
「はあ?」
なんや知りまへんけど、若旦はん、にたにた笑てますねん。堪えきれんいう感じで肩まで揺らせてるんですわ。
「あれはちょっとした悪戯や。許してくれ」
「なんのことです?」
「まさか、尻もちつくほど驚くとはな」
「え!?」
私、咄嗟に大声出してました。なんで若旦はんがあれを知ってるんでっしゃろ。知ってるんはハツ以外におりまへんのや。当然、ハツがしゃべったとも思えまへんし。
てことは、もしかして……。
「ちょ、ちょっと待ってください――」
若旦はん、もう表にはいませんでした。慌てて外に出ましたけど、通りのどこにも姿がありまへん。
若旦はん、「あれは悪戯や」て言いましたな。
あれいうんは、あの鬼火……。
「清六さん、どないした」
背後で声がしました。正之助です。
「あ、いや、別に」
「今日はもう店じまいか。うちもさっき閉めたとこや」
正之助は胸の前で太い腕を組むと、通りの東の方をじっと眺めました。なにを考えてるんかすぐにわかりましたわ。
「あの大男のこと、気になってるんでっしゃろ」
「その通りや。頭から離れんわ、あんな図体した男は。で、あのあと店には?」
「いいえ」
「……そうか」
正之助はあの男の影を追うように西へと視線を流しました。
「清六さん、実は俺、あれからあちこち訊ねて回ったんや」
「え?」
「男を見たか、どこへ行ったかってな。あのでかさや、さすがに人目につく。何人か見かけたいう者がおった」
「ほんまでっか」
「ああ。けど、てんでばらばらや。あっちの路地に入った言う者もあれば、そっちの路地に消えた言う者もおる。それが全部正しいんやったら、男はこの辺を徘徊してるいうことになるな」
「なんのために?」
「さあ。男としゃべった者はほとんどおらんかった。まあ、気軽に話しかけられんやろ」
まったくもってその通りですわ。昼かて、横に正之助がおったさかい私も安心して話せたんです。
「ただ、誰かを探してるみたいに見えたってのは一致しとる。となると、あの男は〈高安〉に出入りしてる者を探しとるんかもしれん」
正之助が聞き込んだ話がみんなほんまやとすれば、妥当な推測でしょうな。男は〈高安〉の関係者に用がある可能性が高い。
さて、ほんなら一体誰に――。
「ぎゃあ!」
私、また素っ頓狂な声を上げてしまいましたわ。みっともない。
はあ……噂をすればなんとやら。
こんな偶然がありますんやな。
あの大男が西からのっそりやって来るやないですか。
正之助もすぐに気付いて、二人で目を合わせました。
「おう、また会うたな」
正之助が愉快そうに男に向かって手を挙げました。
男はほんの少しだけ頷いて応えると、真っ直ぐこちらへ歩いてきます。どうも私らが目的やったみたいです。
「〈高安〉に行くんか」
正之助が私の脇を小突きながら言いました。
「あんた、番頭だったな」
男がじっと私を見下ろしてます。ざらついた声ですけど、腹の底までよう届きますわ。
「ええ、そうです」
若旦はんに引き留めるよう言われたばかりです。正之助に相手を任せて屋敷へ走ろか思てると、男がぼそりと口を開きました。
「悪いが――佐吉に伝えてほしい。今夜、八軒家の船着場で待っていると」
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七章へ続く
(2026年3月28日更新予定)
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