〇朗読との出会い・朗読への想い (2020.11.16)
〇朗読専用劇場 rLabo.オープンによせて (2020.7.6)
〇一般社団法人 朗読表現研究会 設立によせて (2019.9.7)
佐野真希子 一般社団法人 朗読表現研究会 代表理事 朗読ユニット グラスマーケッツ主宰 |
池田久輝 一般社団法人 朗読表現研究会 理事 第五回角川春樹小説賞受賞作家 |
辻明子 一般社団法人 朗読表現研究会 理事 朗読専用劇場rLabo.オーナー |
杉本知恵美 一般社団法人 朗読表現研究会 会員 |
かしゅうりつこ 一般社団法人 朗読表現研究会 会員 |
小川ゆか 一般社団法人 朗読表現研究会 会員 |
2020.11.16
『20年前の決断』佐野真希子
今から20年前、私は京都を拠点に、小劇団(いわゆる小劇場の演劇ユニット)の役者として活動していました。「朗読」という表現形式と出会う以前のことです。
その時、小劇場(演劇を主体とした劇場)の舞台に立ちながら感じていたのは、もう少し立地のよい場所で公演ができないかという点と、劇場がもっと開かれた空間にならないかという二点でした。
京都にはいくつか小劇場がありましたが、四条界隈といった市街地ではなく、バスでしか行けないような不便な場所にあり、実際に見に来てくれた友人たちからも、「遠い」という声を聞いていたのです。
また、当時の演劇空間はかなり特殊でもありました。
会場に着くとビニール袋を配布され、靴を脱いでそこに納め、桟敷や木製のベンチに座る。人気の公演ともなれば、満員の状態で観客同士が密着する。決して快適な環境とはいえません。ですが、この秘密基地のような場所で、演劇ファン同士が興奮を共有することこそ小劇場の醍醐味でもありました。
しかし一方で、これは、演劇に関わったことのない人が、何気なく足を踏み入れる雰囲気ではなかったと言い換えることもできるでしょう。小劇場の内と外には、明確な一線が引かれており、その線の存在にどことなく寂しさを覚えていたのは事実です。
映画や音楽ライブのように観客が気軽に足を運び、観劇という習慣が日常の一部にならないか――私(とユニットのメンバー)は常々そう思っていたのです。
そのためには、観客にとってだけでなく、私たち自身にとっても、表現することがもっと日常的でなければならない。年に数回の特別なことではなく、毎週のように活動できる表現スタイルを探したい。できることなら、駅の近辺など交通の便がよく、入りやすい空間で公演を行いたい……。
そして、私たちは大きな決断を下すことにしました。
今までの劇場から離れてみよう、と。
『朗読との出会い』
その頃、私たちが創作していたのは言葉のリズムを追求するような会話劇でした。大きく身体を動かすようなものではなかったという特徴もあり、今でいうところのカフェイベントの形で、街なかにある喫茶店やバー、ギャラリーなどに企画を持ち込みました。
すると有難いことに、いくつかのお店やスペースが協力を申し出てくれたのです。
これで、立地的にも足を運びやすい会場で、開かれたイベントになると喜びました。そして何より、私たちにとって、表現が日常的な行為になるだろうと期待もしました。あとは、納得のいく表現を追求し、活動を続けていこうと。
しかし、公演を重ねていくうちに、小さなカフェやギャラリーでは、観客との距離やアプローチに違和感を覚えるようになったのです。
役者と観客、互いの視線が行き場を失ったような感覚――。
この違和感を解消するには、どうすればよいのか。
そこで私たちが選択したスタイルが「朗読」だったのです。
朗読の場合、観客は読み手を見ているようで、実際に見ているのは「イメージ」です。朗読作品を聴きながら、観客自らが映像を生み出します。そのため、イメージの妨げにならないよう、読み手側はテキストに視線を落とします。客席にじっと目を向けることはしません。そのプロセスが演劇とは大きく異なる点でもあります。
読み手と聴き手が同じ場にいながら、互いにイメージを作り上げていく。つまり、そのイメージが映画のスクリーンのような役割を果たすことになるわけです。
そのスクリーン上には様々な風景が映し出され、ズームイン、ズームアウトも自由に行われます。そこには無限の想像の世界が広がっているのです。たとえそれが、小さな空間であったとしても……いや、小さな空間だからこそ逆に活きてくるというべきでしょうか。
こうして私たちは劇場を離れたことで、「朗読」という表現に辿り着いたのでした。
『20年後の決断』
それから、20年という月日が流れました。
試行錯誤を重ねながら、私たちは真剣に朗読に向き合ってきました。
あの時、私たちが下した決断は多少なりとも実を結んだという自負もあります。あの選択が間違いだったとも思いませんし、後悔もしていません。
ですが今、ふと振り返ってみると――。
私たちがこの20年の間に描き続けた未来像と、今現在の朗読を取り巻く環境の間には、大きなズレがあったと言わざるを得ません。
朗読は身体一つでも完成する表現です。今日、たった今から誰もが始められます。この気軽さによって、多くの人が取り組みやすい点はメリットであり、また、朗読が芸術や文化として育っていくためのきっかけともなるでしょう。
しかし一方で、その気軽さゆえに、表現としての価値が影を潜めていると感じる場面に出くわすときもありました。朗読が子供たちへの読み聞かせや、ボランティア活動の一環だと捉えられることも多く、聴き手側だけでなく、読み手側もそう思い込んでいる場合さえあったのです。
確かに朗読人口は増えました。ですがこのままでは、朗読が成熟するまでまだまだ時間がかかる。きちんとした基礎技術を土台にし、表現としての朗読へと昇華させることが私たちの想いなのです。
そのためには、朗読に特化した空間が必要なのではないか。
たとえ小さな空間であっても、朗読が朗読として磨かれていく場。読み手と聴き手が朗読を論じ合い、その可能性を追究し合えるような場が必要なのではないか。
そんな風に思うようになったのです。
そして今、ここで原点回帰です。
2020年7月19日(日)、朗読専用劇場rLabo.(アールラボ)を誕生させます。
【*rは朗読roudokuの頭文字】
私自身、朗読を知っていくうちに、他の芸術には代えられない独自の魅力があることに気づきました。「知る」には、たくさんの朗読を聴くことが重要です。聴く楽しさが、朗読を語る楽しさになり、新たな読み手を生むことにもつながるのです。
一人の読み手、一人の聴き手がここで出会い、互いに成長する。
アールラボは、そんな空間でありたい。
朗読という表現が更に広がりを見せ、文化として根差していく未来を願って――。
朗読ユニット グラスマーケッツの立ち上げから参加し、現在は代表として朗読表現の拠点としている。朗読イベント、ナレーション、書誌への執筆など、表現活動は多岐に渡る。京都造形芸術大学で集中講座講師を担当するなど、朗読の普及にも力を注ぐ。 また、自身が開催する朗読教室の受講生による発表会も26回目を迎える。2015年全国朗読大会京都公演にて「京都府知事賞」受賞。
そのために必要な専用劇場。
2020.7.6
朗読専用劇場 rLabo.オープンによせて
『場が表現を生む』佐野真希子
朗読は身体一つでも完成する表現です。今日、たった今から誰もが始められます。この気軽さによって、多くの人が取り組みやすい点はメリットであり、また、朗読が芸術として磨かれていくためのきっかけともなるでしょう。
しかし一方で、その気軽さゆえに、表現としての価値が影を潜めていると感じる場面に出くわすときもあります。例えば、朗読はボランティア活動が主であると、聴き手だけでなく読み手も思い込んでいる状況です。
大きな原因の一つは、朗読を表現活動として発表する場が圧倒的に少ないことではないでしょうか。朗読は一人で活動することも多く、一人では簡単に会場を借りることができないというのも理由に挙げられるでしょう。
これでは芸術としての朗読が育たないのも頷けます。朗読は演劇ではありません。アナウンサーのように原稿を上手く読むことが目的でもありません。朗読は朗読として育つことが大切なのです。
たとえ小さくても「朗読専用劇場」という名を持ち、「表現としての朗読」を発表する場があれば――。
そんな思いを膨らませながら20年が経ちました。
今、この思いを形にします。
2020年7月、朗読専用劇場rLabo.(アールラボ)、オープンです!
(*rは朗読roudokuの頭文字)
アールラボは、朗読を発表する場、朗読を論じる場、朗読の新たな可能性を探る場として活用していきます。そして、少しでも聴き手が育つ場にもなれば――。
私自身、朗読を知っていくうちに、他の芸術には代えられない独自の魅力があることに気づきました。「知る」には、たくさんの朗読を聴くことが重要です。聴く楽しさが、朗読を語る楽しさになり、新たな読み手を生むことにつながります。
アールラボが「朗読」を創るための、きっかけが生まれる場になるよう努力していきます。その先に、朗読文化が広がり、根差していく未来を願って。
2019.9.7
こんにちは。一般社団法人 朗読表現研究会の代表理事を務めます佐野真希子です。
「朗読表現研究会」。
漢字が並び、一瞬見ただけでは何と書いてあるか分かりにくいでしょう。
では、「朗読 表現 研究会」とするといかがでしょうか。
パッと見て意味もイメージしやすくなったと思います。
声の力で聴き手に伝える朗読では、一度見て分かる「朗読 表現 研究会」のような読みが必要です。
そのためには、≪一文字≫ごとの強弱(軽重)と、文字間にあるつながりの強弱(伸縮)を吟味して一つの≪単語≫を音声化し、次に、単語をつなぎ、≪句≫、≪文章≫と少しずつまとまりを増やし、声に乗せる作業を続けていきます。
このあたりまでが、私が思う「ニュートラルな読み」の基礎部分です。
基礎ができるようになると、誰にでも伝わる「朗読 表現 研究会」となるはずです。
そのあと、バランスを見ながら、更に大きいまとまりの≪段落≫を積み重ね、≪物語≫全体を形作っていくことで、基礎から「表現」に入っていきます。
いきなり細かい部分に焦点を当てた話をしましたが、それは、細部を積み重ねた基礎こそが表現を支える土台だと考えているからです。
作品に対して、感情を大切に「ことば」をとらえることに加えて、客観的な視点を持ち、読み解いた自身の解釈を正しく音声化するために、「言語」として扱うことが重要なのです。 その両方があって、音声が物語に昇華され「表現としての朗読」となるのです。
もちろん、朗読を始めた頃の私は、「朗読」という言葉に疑問など持っていませんでした。
仲間と「朗読ユニット グラス・マーケッツ」を立ち上げたときも、単に、手近にあり、自分たちの表現スタイルにとって使い勝手の良い言葉として「朗読ユニット」を使いました。
しかしその後、私たちの表現が演劇ではなく朗読(時には朗読劇)である理由、同じ朗読でも、読み聞かせやポエトリーリーディングとの違いを考える場面に何度も出くわします。
また、仕事を通して、アナウンサー(ナレーション)の「読み」、音読ボランティアの「読み」など、様々な「読み」の特徴を知れば知るほど必要な要素の違いを感じさせられるようにもなります。
反対に、声や基礎を磨くことの重要性はすべてに共通だとも。
そうするうちに、私たちにとって「朗読」という言葉に向き合う日々が、自然に、自分たちの表現が何かを問いかける日々となっていきました。
表現の方法として「朗読」という名前の枠にとらわれる必要はありませんが、私たちの「朗読」はまわりの人々によって形作られていったと言えます。
朗読と向き合い、人と向き合い、作品を創り上げる喜び。
これは20年経った今も変わりません。
朗読教室で初めて朗読をされた生徒のみなさんも、今では朗読を語る仲間です。
様々な視点で論じられることにより、朗読は芸術として更に発展します。
そのためにもっと多くの人と朗読を考える場があれば、という思いが、年を追うごとに大きくなりました。
その思いを形に。
「一般社団法人 朗読表現研究会」を立ち上げ、活動の拠点として「rLabo.」をオープンします。
朗読に多くに人がかかわるきっかけが生まれ、朗読が「表現」としてゆるぎないものとなりますように。